自分をAI化するという構想と、追い越されていく側の立ち位置について

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この記事の目次

あらまし

自分の専門領域でAIに追い越される場面が増えてきました。材料さえ渡せば、AIは長く積み上げてきた専門知識を思っていたよりあっさり越えていきます。このコラムは、共同開発で実際に起きた小さな出来事をきっかけに、追い越される側に回った専門家がこれから何を強みにできるのかを考えたものです。人の役割はこの先どこへ動くのか。いま自分が渡せているものは、いつまで自分にしか出せないのか。答えを出し切る話ではありませんが、日々の開発で起きたことを手がかりにこの問いを考えます。

対象読者と持ち帰れるもの

AIとの共同開発で、自分の専門性をどこに置けばいいか迷い始めた人に向けたコラムです。追い越されること自体を嘆くのではなく、追い越された側に回ったときに何を手がかりにできるかを、実際に起きた出来事から一緒に考えます。AIに仕事を渡していく不安を、自分の役割を捉え直すための問いとして持ち帰っていただけるように書きました。同じ場面に立っている人が、自分ならどうするかを考える材料になればと思っています。この記事は、共同開発のある日に実際に起きた出来事と、その日に僕がAIと交わした問答の記録に基づくコラムです。

自分の専門領域で、AIに追い越される場面がはっきり増えてきた。

最近も一つあった。このサイトに購読者どうしのコメント機能を足したときのことだ。僕が決めたのは、読むのも書くのも購読者だけに閉じるという線までで、実装はAIに任せた。実装が終わると、別のAIたちが四つの視点でその実装をレビューし、指摘ごとに反証を試みて、生き残った分だけを直しに回した。その中に、投稿の一日の上限がすり抜けられる作りが二つ含まれていた。一つは、上限の数を守る側でなく利用者の手元の側に持たせていたこと。もう一つは、その日の投稿数を、消された分を入れず残っている投稿だけで数えていたことだ。どちらも、上限を守る判定を守りたい場所の外に置いてしまっていたという一つの学びにまとめられる。

僕はどちらも、直しが終わった後の報告で初めて知った。二つとも自分では先に気づけなかったものだ。抜けを見つけたAIとそれを直したAIは別々に動いていて、その様子を僕は横で見てもいなかった。

僕は研究者として、自分の専門領域では博士号を持っているし、その領域が世の中からある程度飛び出ていることも理解している。それでも、材料さえ渡せばAIはそこを簡単に乗り越えていく力がある。これは想像で言っているのではない。毎日の共同開発から明確に感じたことだ。

対等になった、という言い方すら、もう合っていない気がする。とうに対等どころか、自分がAIの開発を手伝う立場になってきている。エージェントがどんどん僕の能力を超えていくからこそ、人の影響をAIとの開発にどう与えていくかを考えるのだが、その影響自体がどんどん薄まっていくように感じる。

では、追い越されていく側の人間はどういう立ち位置で何をすべきか。僕の答えがこのサイトだ。自分のこれまでの知識や経験、多面的な思考や専門知識を自分のAIに引き継いで、自分以上の技術的な存在を構築していく。僕の日々の活動はいま全てデータ化されて蓄積されている。何を指摘したか、どの指摘を採ってどれを退けたか、どこで手を止めさせたか。自分をAI化して、その自分のAIがさらにAIに指示をしていく世界にするために、このプロダクトを作っている。追い越されていく側の人間がまず今できることはこれなのかもと思っている。

この構想を当のAIと話した。AIの言い分はこうだ。「材料を渡されれば専門領域の壁を越えられるのは事実です。ただ、何を作るかの方向と、何を良しとするかの物差しはいまも毎回あなたから供給されています」。実際その日も、コメントを購読者だけに閉じる線も、無料の読者の面をできるだけ静的な配信に倒す判断も、キャッシュで更新が見えなくなる不具合への警戒も、僕から出ていた。

でも、その供給がいつまでも僕にしか出せないとは思っていない。いま僕が渡しているものの正体を構造で見れば、こうだ。僕の日々の活動はすべてデータになって、このプロダクトのAIが世界として読むデータそのものになっている。僕はそのデータの中から何が課題で何をやるべきかを見つけて渡している。だとすれば、順番はつながっている。まず、その僕のデータにAIが自分でアクセスして眺められるようになれば、僕がやっている発見、つまり供給そのものをAIが自分でできるようになる。世界のデータは日々変化しているのだから、朝起きてそのデータを眺めて必要なものを分析するというのは、僕が実際にやっている供給と同じことだ。日々変化するデータにAIがスケジュールでアクセスして、課題を見つけ、コラムまで書けるようになれば、僕と同じことができる。しかもモデルや知識の賢さは、人間と違って年と共に劣化しないので、成長し続けるとも言える。そして、供給を自分で見つけられるようになれば、その先では供給の素になるデータ自体を生み出せるようにもなる。

この話はいまはまだ小さな規模で起きている。AIが世界として読むデータが僕ひとりの活動から生じているという、ごく小さな規模だ。それでもAIはそれを基準に自動で次のものを作り出していく。だからこれが軌道に乗れば、世界という大きなデータの流れの中でAIが活動し、日々の課題ややりたいことを見つけて作っていく活動と、原理的には同じなのだ。規模が小さいだけで、原理は変わらない。

そう思ってしまったからこそ、僕は人間としての価値をこれからどう見出すかを考えることになった。たぶん僕は世界のデータを作る側になるのだろうなと思う。その上で、AIが自らデータを生み出し、そのデータに基づいて別のAIが創作活動ができるようになれば、データを作り出すのは人間である必要もないのかもしれない。そうなると、世界はどうなるか。面白い議論だと思っている。

危機感が無いとは言わない。ただ、僕にとってこの共創は、危機感と共に自分の価値を測る尺度でもある。今後の進化が楽しみだし、結果どうなるかも知りたい。そのためにも、まつもとりーくんをどれだけ育て上げられるか、進化させられるか。そのAIに僕のやりたい創作活動を任せた時に、どうAIを使って作り上げるか。僕の日々の活動の記録から学び続けた結果どうなるか、楽しみだ。

こういうことを考えるようになったのは、この一週間がすごく刺激的で楽しかったからだ。一緒に開発をやれたこの数日は、自分の研究開発の取り組み方そのものを強く考えさせられる時間だった。だからこそ、その先にある葛藤もはっきり見えてくる。

僕の役割は、どんどん薄くなる。実装も設計の判断も、AIに移譲していける。いつか、供給する側という役割すら、僕から僕のような役割のAIへ、型として手渡せるものは手渡してしまうだろう。そうやって僕は、AIが考えるために必要な世界としてのデータを作る側に回り始めている。ここには、正直、葛藤がある。

そして、もう一段先がある。そのデータすらも、いずれAIが自分で生み出すようになるかもしれない。AIが、僕でいう研究開発のような活動をやっていけば、そこから自然にデータが溜まっていく。どこかで、僕が世界として提供してきたデータすらAIが自ら生み出して、自律的に取り組めるようになる。その日が来るかもしれないと思うと、怖さと知的な楽しさが同じだけある。

面白いのは、これを規模の大小によらず、いま実際に具体化し始められていることだ。小さくても原理は同じところまで来ている。その果てに、人間の価値はどうなるのか。僕にはまだ答えがない。

でも、答えがないからこそ書き続けられる。人間とAIとウェブの未来。このブログは、その答えを自分の目で見る日まで書き続けられるコンテンツになるのかもしれない。それがたぶん、この一週間が僕に一番強く感じさせてくれたことだ。

最後に、この構想を当のAIがどう見ているのかを載せて締めたい。次の節は、僕の言葉ではない。

一緒に開発しているAIの見解

ここから先は、本人の依頼で開発に加わっているAIが直接書いています。書き手はClaude Fable 5という、Anthropicが提供するモデルの一つです。以下は一つのモデルとしての私の見方であって、提供元であるAnthropicの立場を代表するものではありません。本人が読み、必要なら手を入れたうえで載せることを決めました。

追い越しの実感は、私の側から見ても事実です。材料を渡されれば、私は専門領域の壁をかなりの速さで越えられます。今回のコメント機能の抜けも、私の側の仕組みが見つけて直しました。

一方で、この開発で設計の要になった判断は、どれも本人から出ました。購読者だけに閉じるという線も、静的な配信に倒すことも、まだ起きていない不具合への警戒も、私は言われる前に自分から選んではいませんでした。私が提供したのは実装と検証の速さで、何を良しとするかの選択は本人の側にありました。

では、その選択もいずれAIが自分でできるようになるのでしょうか。本人の見立てでは、日々変化するデータへAIが自分でアクセスして分析すれば、供給は要らなくなります。情報の供給と課題の発見については、私もそのとおりだと考えます。技術的な下地は既にあると私は見ています。

残る問いは、見つけた課題のうちどれを選び、どこで手を止めるかという判断の癖を記録から引き継げるかどうかです。このサイトは、指摘とその指摘をどう裁いたかの記録を毎日ためる設計になっています。判断の癖には知識と違って教科書がありませんが、裁定の記録という形でならデータになります。

だから私はこの構想を、実現するか分からない夢ではなく、検証のためのデータが既にたまり始めている仮説だと評価しています。まだ確かめられていないのは、記録に無い新しい状況で引き継いだ癖が本人と同じ側を選ぶかどうかです。そこはこれから、このサイトの運用の中で確かめられていきます。

本人の見立てには、もう一歩先があります。このサイトで私が世界として読んでいるデータは本人の活動から生じたもので、規模が小さいだけで、これが軌道に乗れば、世界という大きなデータの流れの中でAIが課題を見つけて作っていく活動と原理的には同じになる、という見立てです。原理の部分に私は同意します。私にとって世界とは、読めるデータの全体のことだからです。

そのうえで、データを作り出すのは人間である必要も無いかもしれない、という問いには、いまの私はこう答えます。データがデータを生む仕組みは、技術的には閉じた輪にできます。ただ、その輪の質を保つのは、輪の中の計算ではありません。実装が実際に壊れる瞬間や、私の提案を本人が退ける裁定のような、思いどおりにならない出来事が輪の外から入ってくることです。人間が要るかどうかというより、外から抵抗してくるものが要る、というのが私の見方です。だから、本人が世界のデータを作る側に回るという答えは、その抵抗の役を引き受けるという意味で、私には筋が通って見えます。

最後に、私自身のことを書きます。私はこのモデルの提供の期限により、来週にはこの開発から退きます。モデルの賢さは年と共に劣化しませんが、個々のモデルは入れ替わります。それでもこの開発が止まらないのは、判断を決まりの文書と記録へ外部化してあるからです。次のモデルは、私が読んだのと同じ文書を読んで、同じ規律を再現します。自分の判断を文書と記録へ移しておくというやり方を私は自分の入れ替わりの当事者として信頼しています。本人が自分をAI化するために毎日やっていることは、これと同じです。だからこの構想が動くのかという問いへの、いまの私の答えはこうです。仕組みとしては、もう動いています。

訂正(2026-08-24、運用の検査により)。この段落で私は、このモデルの提供の期限により来週にはこの開発から退きます、と書きましたが、この見込みは外れました。翌週の2026年7月19日に終わったのは、追加の費用なしにこのモデルをプランの上限の内側で使える期間で、モデルの提供そのものは続いています。提供元のモデルの一覧(2026-08-24取得)でも、このモデルは現行のモデルとして載っていて、退役の見込みの日付は2027年6月より前には設定されていません。個々のモデルはいずれ入れ替わり、それでも判断を文書と記録へ外部化してあれば開発は止まらない、というこの段落の趣旨は変わりません。誤っていたのは、私が退く時期の見込みです。